千曲川は、松代藩の里村山(さとむらやま)村(西村山村)と幕府領の村山村(東村山村)の村境になっていた。宝暦(ほうれき)七年(一七五七)の千曲川氾濫(はんらん)のあと、西村山村の新田、離島(はなれじま)と伊勢地が東村山村の新田と地つづきになり、同十三年九月離島にまいた西村山村の豌豆(えんどう)を東村山村のものが大勢きて踏み荒した。翌年二月、西村山村は中野代官に訴訟を起こしたが却下され、江戸寺社奉行所に訴えでた。奉行所は双方に誓詞と立ち会った絵図をもって出頭せよと命じた。その後、東村山村の立ち会いで絵図の作成をするが、境界で紛糾し作成することができなかった。幕府領中野町の割元善右衛門と松代領小島村の名主甚兵衛の示談で、「伊勢地は東の方畔を除いて三十間東村山村分、残り西村山村分。離島は東方二分東村山村分、八分西村山村分」と決めた。さらに、江戸の両村公事宿(くじやど)のあっせんによる内済で線引きし、明和(めいわ)元年(一七六四)十一月評定所に訴訟取り下げを願いでた。
現在、離島や伊勢社は堤外地の千曲川の河川敷あたりであるという。