石高の変遷

420 ~ 420

近世柳原の枝村は、三ッ屋(小島)・宮村(中俣(なかまた))・鍛冶(かじ)村(布野(ふの))・上村山村(村山)の四ヵ村と数は少ない。これは千曲川沿いを除いて、早くから開発されたためである。村高は慶長(けいちょう)七年(一六〇二)「川中島四郡検地打立之帳」によれば小島村七三〇石余、中俣村五八七石余、古(布)野村三二八石余、村山村六〇八石余と比較的村高が多い方である。その後、新田開発などによって村高は漸増し、天保(てんぽう)五年(一八三四)の郷帳では中俣村六五石増、布野村八三石増となり、明治元年(一八六八)には布野村一七石、里村山(さとむらやま)村四七石と増加している。これは千曲川沿いの下河原新田・福島新田裏・久保河原・一里塚ほか新田の開発によるものであろう。