北八幡川(堰)による用水

420 ~ 422

柳原地区の水田用水は、裾花(すそばな)川と犀(さい)川(昭和十一年以降)から取り入れて、善光寺平を東流し千曲川へ流れこむ北八幡川(長沼用水)から分水(土井)している。布野用水は、北長池(炭平コーポレーション北)で分水し、河原田堰(かわはらだせぎ)・中ノ土用(なかのどよう)堰・大配(おおばい)堰・堀田(ほりた)堰などを通し布野田圃(たんぼ)を潤し、小島用水は、十二水門や小島土井(富士通東)で分水し、久保田(くぼた)堰・岡田堰・樋(ひ)ノ堰・中土井(なかどい)堰・砂田(すなだ)南堰・砂田北堰などで小島田圃に灌漑(かんがい)する。また村山用水は小田元(こたもと)(柳原自動車整備工場北)で分水し、沖(おき)堰・中堰・宮田堰・西堰・柳田(やなぎだ)堰・裏流(うらなし)堰などを流れて村山田圃を、中俣用水は、主に西側を流れる長沼用水から分水した囲(かこい)堰・七配(ななはい)堰・宮土井(みやどい)堰・一丁田(いっちょうだ)上堰・一丁田下堰・﨤町(そりまち)上堰・﨤町下堰・藤ノ原(とのはら)堰などで中俣田圃を、それぞれ灌漑している。分水の分配の仕方は慣習や証拠によって決められている。


写真6 富竹(小島)用水取り入れ口 左から富竹(小島)用水、長沼用水、悪水

 北八幡堰は鎌倉時代、豊野・長沼を中心とする太田荘の地頭島津氏が開発したといわれ、のちに長沼と古里の一部が幕府領になったので、長沼用水組合の総代が最高管理者である触元(ふれもと)になっている。柳原・朝陽・古牧・芹田の旧二二ヵ村は簗手取組合(やなてどりくみあい)を組織し、堀浚(ほりさら)い・切り払いをおこない、裾花川の取り入れ口改良前までは、取り入れ口の簗手の構築と保守、口掘りなどおこなっていた。堰守(せぎもり)は代々村山の小坂家であるが、代理を置いている。