諸産業の発達

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松代領の川北通りは木綿の産地である。寛政(かんせい)・文化(ぶんか)年間(一七八九~一八一八)善光寺町や吉田の木綿・布仲間に入って営業している家は、小島村五、布野村一、里村山(さとむらやま)村一である。小島村には明治二年「産物会所」ができている。千曲川の川魚をとっているものもいた。文政(ぶんせい)三年(一八二〇)犀川合流布野境までのあいたの鮭(さけ)捕獲の冥加(みょうが)銀は三〇匁(もんめ)上納している。天保十三年には、丹波島から長沼境まで三両二分であった。慶応(けいおう)二年(一八六六)中俣村には、大工本役二、半役一、指物師(さしものし)本役三人の職人がいた。明治はじめごろに中俣・布野では、酒樽(さかだる)・手桶(ておけ)・味噌桶(みそおけ)などの桶類や、長持・箪笥(たんす)が多くつくられている。

 明治期には、村民のほとんどは農業と養蚕で、農閑期には男子は山稼ぎ、商業や力役の出稼ぎ、女子は紬(つむぎ)織り、縫物や木綿織物をおこなっていた。主産物は、米・大麦・小麦・大豆・繭・綿花である。米は長野町に、繭は須坂・上田に、生糸・蚕卵紙は横浜に出している。明治期以降、第二次世界大戦前後まで、稲作面積一六〇町歩(一五九ヘクタール)、収量はほぼ四千石と米産地の地位を保っていた。いっぽう、養蚕が盛んになり年々桑園面積も増えて、第一次世界大戦の好景気には八五町歩(八四ヘクタール)、収繭量(しゅうけんりょう)約一万二千貫(四五トン)であった。しかし、昭和初期の恐慌(きょうこう)によって生糸の不振から減少し、新しくりんごが栽培された。昭和十年(一九三五)桑園七七町歩、りんご二町歩。同二十五年桑園・りんごとも、ほぼ二三町歩。それからは、桑園は減少し、逆にりんごは増加し、同二十四年ごろは各集落にりんごの共同出荷所が設けられ、養蚕にかわってりんごの果樹栽培が盛んになった。