慶長(けいちょう)年間(一五九六~一六一五)に、宿駅が整備された「北国脇街道」は、牟礼(むれ)-(平出)-神代(かじろ)-長沼-(布野(ふの)渡し)-福島-川田-松代-矢代をいう。別名「雨降り街道」ともいわれた。本街道の市村の渡しが増水で川留めになったとき、比較的流れのゆるやかな布野の渡しを渡って通行するためである。この布野の渡しから長沼境までが柳原分で、そこには高札場跡や道標(第二節五石造物参照)と一里塚跡がある。布野の渡しの対岸、福島(現須坂市)には道標「右 小布施道・中野道 左 北国街道・布野渡船・善光寺道」と「右 松代道 左 草津仁礼道」の二つがある。
布野の渡しは、松代領内「七渡し」の一つ。舟二艘(そう)を常備し、うち一艘は囲船(かこいぶね)。水主(かこ)一二人、うち船頭一人と定められていた。藩からの給米はなく、繋籾(つなぎもみ)として関係の村々から籾(もみ)を取り集めることを許されていた。舟渡しは一人一〇文、幕末には三六文、出水時は六六文と高くなる。また、洪水のたびに川筋が変わり、渡しの位置も変わったらしい。安永(あんえい)九年(一七八〇)舟渡し御用は布野村が三分の一、里村山(さとむらやま)村三分の二のところ、舟渡場の移動により、渡船橋普請は、布野村と里村山村では七対三の割となった。
布野-小島-石渡(いしわた)-太田(下越)-三輪-淀ヶ橋と通じる道を中道(なかみち)という。布野の渡しから善光寺に通じる最短距離である。また、布野-小島-南堀(みなみぼり)-石渡-吉田と通じ吉田で北国街道と交わり善光寺に通じる道もある。いずれも善光寺道である。化政期の十返舎一九は『上州草津温泉道中続膝栗毛』で「星をいただき善光寺の宿をでて、福島近くに夜明けになった」という。このいずれかの道を通ったのであろう。