弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震では、里村山(さとむらやま)村は土竜(もぐら)が上るような勢いで大うねりを起こし、土手には異形の爪の跡を残したという(「大地震留書」)。この地震で更級郡岩倉山(いわくらやま)が崩れ、犀(さい)川がせき止められ、四月十三日午後三時ごろせき止めがいっきに押し流され大洪水になった。中俣(なかまた)村はこの洪水をあらかじめ知ったので、女・こどもは親戚に避難させ、役箪笥(やくだんす)は北尾張部へ移し、男は木と木の間に材木を結びつけ、高床の避難場を作って家を守ったという。下流の南郷(みなみごう)村(現豊野町)では里村山村や小島村の持ち主名のある稲こき・風呂桶(おけ)・手桶などを拾っている。この災害のため松代藩では、里村山村へ慰労金として酒代二貫五〇〇文を渡している。
昭和十六年(一九四一)七月十五日の長沼地震では、震源地は長沼地区の赤沼から神郷(かみさと)村(現豊野町)の南郷あたりといわれ、死者・倒壊家屋などの被害があった。柳原地区では柳原村役場の物置と民家二戸三棟が半壊、多くは家屋や物置が傾き、壁が落ち、戸障子の開閉が困難になった。また、地割れが起きて河原田(山王堰(せぎ)北)では、青いどろどろした砂が吹き出し、余震も一〇日間ぐらいつづいていたという。