寛保の大洪水

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寛保(かんぽう)二年(一七四二)七月二十七日から降りはじめた雨は、二十八日から二十九日にかけて大暴風雨となり、八月二日までつづき、前代未聞の大洪水となった。「松代満水の記」によれば、小島村は水が急に家へ流れ込んで家財を流し、布野(ふの)村は流れ家七軒、潰れ家一一軒、流死三人、土手四五〇メートルと橋を流し、道二七〇〇メートル余を破損した。里村山村は二一軒流失、男二二人流死、土手一七〇〇メートルが押し破られたという大惨事である。また、「領内流死・生残人届書」によれば中俣村の喜兵衛は母親と女房・こどもを亡くしている。この災害の水損は、小島村五〇三石、中俣村四二八石、布野村二八三石、里村山(さとむらやま)村四七一石。村高との割合でみると最高は里村山村の七七・五パーセント、最低で中俣村の六五・六パーセントにのぼっている。


写真8 出水時の村定-中俣村-「当村度々出水ニ付村方難渋ニ付諸勧進物貰等一切入べからず」(上野義次提供)