昭和二十四年九月二十三日、豪雨のため裾花(すそばな)川の九反(くたん)と岡田地籍の堤防が、午前七時三〇分ごろと八時一五分ごろ決壊した。濁流は長野駅南一帯から大豆島・朝陽を浸水総なめにし、洪水は布野堤防を乗り越え、柳原全域に押し寄せてきた。同日午後五時三〇分、県道長野須坂線は深さ二・五メートルぐらい冠水、長野電鉄線の線路は浮き上がり、運行不能となった。翌二十四日朝はだいぶ減水し、県道は午前中に通行禁止解除、電鉄線は午後四時七分須坂発上り電車から開通した。柳原村内で浸水を免れた家は十数戸、二十三日夜は公会堂や神社に避難したところもあった。久保河原地籍は二十五日になっても一メートルほど滞水し、田畑の被害は甚大であった。村では三日間食事のためパンの配給をした。