明治十九年(一八八六)六月はじめから八月四日まで雨がなかった。長沼用水組合と各村の用水担当人は、七月一日から四日間、裾花川の奥地まで登って切り払いをしている。干ばつになると水争いは絶えない。この年九月三日、中俣と小島で小島土井の留木(とめぎ)の件について訴訟を起こしている。中俣はこの機会に前川(南八幡川)から中俣田圃(たんぼ)への引水を計画した。はじめは失敗したが、明治二十六年七月二十三日、古野神社東側の下を暗渠(あんきょ)で通し、北八幡川の上を掛樋(かけどよ)にして県道の下を暗渠で役場(旧広万商店)前の堰(せぎ)に導入し、東囲(ひがしかこい)堰に流し中俣田圃に補水した。