大正十三年の干害

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長野測候所によると、大正十三年(一九二四)の夏の降水量は平年の半分で、水田は亀裂し大干害となった。同年七月一日裾花川の取り入れ口で、鐘鋳(かない)・八幡両堰組合が簗手(やなて)の切り落とし時間で争いを起こした。一時和解したかにみえたが八月十五日から再び争いが起こり、十七日までつづいて訴訟問題となった。

 昭和四年九月善光寺平農業水利改良期成同盟会を結成し、善光寺平の用水不足を犀(さい)川から導水して解消し、あわせて鐘鋳・八幡両組合の紛争を解決しようとした。同五年十二月三日この目的達成のため、善光寺平耕地整理組合を設立し、同時に鐘鋳・八幡両堰組合の訴訟問題を和解させた。同七年一月犀川取り入れ口の工事に着手した。昭和八年七月二日から北長池では揚水機を使って、前川(南八幡川)の水をくみ上げ灌漑(かんがい)をしていたところ、同年七月六日布野・中俣は長野地方裁判所民事部に水利妨害排除請求の訴訟を起こし、午後一〇時ごろこの揚水機をこわしたという。北長池もただちに揚水機破壊について長野区裁判所検事局に告訴した。これらについて、善光寺平耕地整理組合は水利事業の完成を理由に、双方の訴訟と告訴を取り下げるよう、同年十二月二十八日調停し解決した。犀川からの導水工事と裾花川の取り入れ口の改修工事は昭和十一年三月完成し、これによって、干害の不安はなくなり、取り入れ口の労力や費用が少なくなった。昭和二十七年一月には東京電力株式会社の小田切発電所計画が起きて、犀川の取水口が問題となったが、発電所放水路から取水することにし、工事の頭首工は会社の補償でおこない隧道工・分水工・サイフォン工・導水路工など総額四億円をもって、同二十八年八月工事着手、同四十年三月全工事を完了。「今や用水は豊富、干害を忘れ豊穣(ほうじょう)の秋を楽しむに至る……」と小田切ダム取水口上に導水路工事完成記念碑が建っている。