寺子屋と師匠

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柳原地区には、筆塚や彰徳碑はあわせて一〇基。古い筆塚は文化文政期の会津儀兵衛、榎本通倫(つうりん)、榎本玄叔(げんしゅく)である。儀兵衛は農業のかたわら読み書きを教えていた。通倫、玄叔は医業を営み寺子屋を開いている。自宅裏に「総筆弟中(そうひつていちゅう)」と刻まれた筆塚がある。

 布野(ふの)の水野久兵衛は、天保から安政期に読み書きを教え門弟一八〇人という。筆塚は南堀(みなみぼり)の長命寺にある。小島の榎本通庵(つうあん)、中俣(なかまた)の寺田寛蔵、里村山(さとむらやま)の深沢喜曽八らは江戸で学び、帰郷して寺子屋を開いている。通庵は玄叔の子で、江戸の荻原秋厳に漢学を学び、医業を継ぎながら寺子屋「守成堂」を開いた。寛蔵も秋厳に師事し寺子屋「晩翠(ばんすい)堂」を開く。筆塚には自作の「鳥の跡 しらぬがちなるこの身もて ひとを教しことぞ恥かし」とある。また、喜曽八は書を得意とし、寺子屋を「旭雄堂」と称した。

 布野の中野三十郎、太田界亮(かいりょう)、坂本瀬兵衛、村山の放任(ほうにん)も寺子屋を開いたという。小島の宮沢金右衛門は山岡鉄舟に学び、道場「講武館」を開いて剣道を教えていた。