小学校の変遷

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学制の発布により、明治六年(一八七三)七月一日小島・中俣・布野・里村山の各村を巡回しながら授業をする「巡回学校」を開いた。同七年十一月一日中俣村乗組に「人として正しく逞(たくま)しく生きる」という意をとって逞義(ていぎ)学校を、清水対治主任のもと、児童数一二一人で開校した。同十九年「小学校令」公布により、当時、長沼大町ほか六ヵ村戸長役場の管内であったため「長沼尋常小学校柳原支校」となる。尋常科・簡易科・子守部を設け就学率全局めた。同二十二年町村制施行により「柳原小学校」と改称。学齢児童三一一人のうち就学児童二一二人となる。同四十年小学校令が改正され、義務教育六年制となる。同四十二年十一月二十三日には新校舎を柳原字西囲に新築移転し、落成式をおこなう。


写真9 柳原小学校 明治42年柳原字西囲に新築する

 大正九年(一九二〇)吉田尋常高等小学校の高等科への委託通学を廃止し、高等科を設け「柳原尋常高等小学校」となる。児童数三二二人。昭和十六年(一九四一)四月「柳原国民学校」となる。この年太平洋戦争が起こり、戦争が激しくなるにつれ勤労奉仕が多くなった。同二十年八月十五日終戦。同二十二年四月新学制により柳原小学校に柳原中学校が併設された。

 昭和四十八年七月三日、開校百周年記念式をおこなう。校門のそばの柳の大木が象徴的であった。同五十二年四月、小島七〇二番地に新築移転した。平成八年(一九九六)十月児童数五五四人となる。