千曲川堤防の請願

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 柳原地区は東側に千曲川が流れ、また、長野市街を流れる八幡川の下流にあるため、水害を防ぐための築堤と排水は古くから宿願の事業であった。正徳(しょうとく)三年(一七一三)すでに里村山(さとむらやま)村には中俣(なかまた)境から長沼境に土手が築かれ、そのうえを往来していた。また、天保(てんぽう)十三年(一八四二)中俣村には小島境から早見土井下に、高さ四五センチメートル程度の住居囲土堤兼善光寺往来道があった。

 明治十年代には、千曲川沿いに高さ三メートルほどの堤防が長沼大町から地蔵窪(じぞうくぼ)につづいて、さらに南西へ、里村山村と柳原村境へ高さ二・七メートルほどの堤防が築かれていた。また、東布野から西の方、北長池境まで高さ一・八メートルほどの堤防があった。これらの部分的な霞(かすみ)堤防のほかに、簡単な一夜堤防もあった。しかし、水害は頻繁に起きていたので、頑丈な高い連続堤防が望まれていた。

 大正二年(一九一三)千曲川の関係市町村による「千曲川治水会」(会長小坂順造)と県知事を会長とする「長野県治水調査会」を設けて、国に千曲川の築堤の請願をつづけたところ、大正七年から一〇ヵ年計画で内務省直轄による千曲川堤防改修工事が決定、同七年十一月二十三日、千曲川と犀(さい)川合流地の河川敷で、内務大臣代理小橋一太次官が来席して起工式をおこなった。