旧県道と磯右衛門の土地問題

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土地開発が進むにつれ場所によって、旧来の慣例や契約で問題になったり、再認識されることがある。中俣(なかまた)地区を東西に抜ける旧県道長野・須坂線は、八幡川の湛水(たんすい)や千曲川の南からの洪水をせき止める役目をしている。このため道路をはさんで両地籍の利害関係が相反し、その高低が問題になる場所である。

 明治三十六年(一九〇二)七月二十六日、布野・中俣両区で、中俣の村山境より西二五間(四五メートル)を起点に五〇間(九一メートル)を、現道路より二寸五分(七・六センチメートル)引き下げ、北側を石垣にし出水時は自然溢水(いっすい)にすることを決めた。しかし、あまり守れないので大正二年五月二十四日、あらたに全村四地区の協議で、中俣の城橋から村山・中俣境の県道二五八間(四六九メートル)の高低実測図を作成し、それを原型として永久に維持する。また、中俣の村山境より西二五間を起点とした五〇間(九一メートル)の道路に隣接する上野磯右衛門の土地、水田二畝一二歩(二三八平方メートル)と六畝二一歩(六六四平方メートル)の自然流水の確保は、別に契約することとした。

 これによって大正二年八月二十六日、地役権者(要役地)一八人と地役権設定者(承役地)上野磯右衛門のあいだで、九九九年間自然流水を妨げないよう建物・竹木・土盛りを設けない、道路面より高い作物は耕作しない、などと約定して金三〇〇円支払い、たとえ所有権が移転することになってもこの契約の義務は継承することとした。また、同三年十一月十二日県では、城橋から村山境の県道実測図を作成し、路面との水平線を刻んだ石標を建てることにした。現在もその石標と道路面はほぼ一致している。磯右衛門の土地は転売・分筆され、所有権者はかわり、野菜などがつくられている。