浅川地区は近世のはじめ、西条(にしじょう)村・北郷(きたごう)村の二村であった。西条村は長沼領に組み込まれていたが、正保(しょうほう)四年(一六四七)長沼領から五〇〇〇石分が幕府直轄領に移り、西条村はこれに含まれ以後幕府領となった。のち、天和(てんな)二年(一六八二)伺去真光寺(しゃりしんこうじ)が分村して別村となった。北郷村は松代領であり、集落区分は次のようになっていた。
西条村 西条(東組) 押田(おしだ)(西組) 福岡(ふくおか) 坂中(さかなか) 台ヶ窪(だいがくぼ) 西平(にしひら)
伺去真光寺村 伺去(しゃり) 真光寺(しんこうじ) 清水(きよみず)
北郷村 一ノ瀬 畑山(はたけやま) 門沢(かどざわ) 中曽根(なかそね) 池平(いけだいら) 城(じょう) 宮ノ前 竹ノ下 三ッ出
浅川東条は明治二十二年(一八八九)の町村制施行まで、東条(若槻)の管下であり松代領であった。
明治五年、戸籍区が導入され、浅川地区は第六一区となり、これには若槻・高岡も含まれた。同七年大小区制に改められ、第二五大区第五小区となった。これには西条・伺去真光寺・北郷・檀田(まゆみだ)(若槻)の四村が入り、山崎与市が区長となり各村には戸長が置かれた。
同十二年、大小区は廃止され県下の一〇郡は一六郡となり、水内(みのち)郡も上下に二分され浅川は上水内郡に編入された。さらに県は、数ヵ村の村を単位とした連合町村と連合戸長役場の設置を布達した。これにともない同十八年三月から若槻・浅川の一〇ヵ村は一行政区となり、連合戸長役場が若槻東条に設置され、連合戸長には鈴木長兵衛が就任した。