明治から昭和初期までの浅川の戸口は戸数で四百数土尸、人口は二千人から二千数百人であった。太平洋戦争末期の昭和十九年(一九四四)ごろからは都市からの疎開による人口増加が始まり、戦後は疎開者の引き揚げにより減少した時期もあったが、同三十九年、県企業局による浅川団地の造成後は、戸口は一挙に倍増して、同四十年の戸数は八百余戸、人口は三千七百余人となった。その後、同五十三年に西条団地、同五十六年神楽橋団地、屋敷田の団地があいついで造成され、平成七年(一九九五)には戸数二五九二戸、人口八一七五人となり、市合併時に比べ、戸数で四・五倍、人口で二・五倍に増加した。これも市中心部に近く、道路・環境がよくなり、立地条件が整った結果である。
従来の浅川小学校は児童数の増加により窮屈になり、昭和五十年十月、水田地帯であった近くの浅川東条三三七番地に新築移転した。