平安時代から鎌倉時代にかけて全国的に荘園が発展するなかで若槻荘が形成されていくが、その初見は『吾妻鏡』にみえる文治(ぶんじ)二年(一一八六)三月「乃貢未済(のうぐみさい)庄々注文」の「証菩堤(しょうぼだい)院領若月(槻)庄」である。この若槻荘には現在の浅川地区も含まれていた。証菩提院は天仁(てんにん)二年(一一〇九)、堀河(ほりかわ)天皇の中宮篤子(あつこ)内親王が建立した寺院で、若槻荘はこれに寄進された荘園であった。のち京都に勧請(かんじょう)された新熊野(いまくまの)社にかわったが、実権は皇室所管の荘園である。「乃貢未済」の督促状が出されたころ、鎌倉幕府の御家人(ごけにん)として源義家の孫にあたる頼隆が若槻荘の地頭職に赴任し、以後若槻氏を称し若槻・浅川にわたる荘内を統治した。
その後も若槻荘は戦国期の天正(てんしょう)時代までつづき、同七年(一五七九)の「諏訪(すわ)下社造営帳」では、東条・西条・押田・真弓田・山田・上徳間・下徳間・稲積・河原田・田子の一〇郷が若槻荘内に入っている。
北郷は「落合領広瀬庄七郷」の一郷として広瀬荘に属していた。武田氏により一部は飯綱神領として仁科千日太夫に寄進され、残りは葛山(かつらやま)衆の桜氏や立屋氏に所領として与えられた。しかし、荘園制も天正(てんしょう)時代初期には崩れさって、戦国時代には実力を競う武将配下諸士の所領地となり、武田滅亡、織田信長の死のあとは、若槻荘内や北郷は上杉景勝(かげかつ)配下の島津忠直(長沼城将)に支配された。