この城跡は若槻氏の築いた山城であり、若槻山城と同一のものである。本郭が若槻東条と浅川西条の境界に当たるため、明治十三年(一八八〇)『町村誌』編纂(へんさん)のとき、西条村からは西条城跡として報告された。「西条城跡、大字西条三登山の中腹城山にあり。東西拾五間(二七メートル)、南北二七間(四九メートル)、二間より六間の崖七ヵ所あり、面積三百二十八坪(一〇八四平方メートル)、北に五条の虚(堀)あり、築城年間不詳、西条治部少輔(じぶのしょうゆう)の居城と言う」とある。
西条治部少輔は、若槻氏系図によれば先祖頼隆(よりたか)の二男であり、伊豆守(いずのかみ)を称した頼定(よりさだ)と同一人物である。平成三年(一九九一)に、鎌倉時代中期、建治(けんじ)元年(一二七五)京都六条の八幡宮再建費用を御家人らか拠出している史料が発見された。このなかで頼定は兄頼胤(よりたね)とともに五貫文ずつ拠出している。金額から御家人の勢力が判明するが、若槻氏兄弟の一〇貫文は水内(みのち)郡諸士では最高であり、名門の村上氏や高梨氏と同額である。これによって当時の若槻氏の隆盛がうかがえる。