西条字赤萱平 県道長野信濃線にかかる駒沢橋の東に孤立する支峰に位置する。頂上の本郭は東西二二メートル・南北三七メートルあり、土塁の跡も残されて西南に数ヵ所の郭跡も確認できる。眺望もよく要害の山城である。押田太郎の築城という。押田氏は若槻氏の分流で、若槻頼胤の子頼広(よりひろ)が押田太郎を号した(「尊卑分脈」)。頼広は正安(しょうあん)元年(一二九九)七〇歳で死去、その子頼仲(よりなか)が多胡(たこ)(田子)・押田両郷を相伝(そうでん)した。
押田城跡
西条字赤萱平 県道長野信濃線にかかる駒沢橋の東に孤立する支峰に位置する。頂上の本郭は東西二二メートル・南北三七メートルあり、土塁の跡も残されて西南に数ヵ所の郭跡も確認できる。眺望もよく要害の山城である。押田太郎の築城という。押田氏は若槻氏の分流で、若槻頼胤の子頼広(よりひろ)が押田太郎を号した(「尊卑分脈」)。頼広は正安(しょうあん)元年(一二九九)七〇歳で死去、その子頼仲(よりなか)が多胡(たこ)(田子)・押田両郷を相伝(そうでん)した。