幕府領西条村 伺去真光寺村

464 ~ 466

西条村は、慶長(けいちょう)七年(一六〇二)松城(松代)領主森右近忠政による検地(右近検地)を受け、「六百六拾九石六斗弐升九合 西条村」とされ、これには西条村(東西両組)・伺去真光寺(しゃりしんこうじ)・徳間稲倉(とくまいなぐら)組が含まれている。西平(にしひら)・福岡(ふくおか)・坂中(さかなか)・台ヶ窪(だいがくぼ)は、その後延宝(えんぽう)八年(一六八〇)の新田検地で石高が確定する。

 若槻地区の徳間の一部と稲田(いなだ)のうち稲倉組の両集落が西条村の飛び地になった経緯は、中世の歴史にさかのぼる。室町時代中期(永正(えいしょう)年間・一五〇四~二一と伝承される)ごろ、若槻氏は村上氏に攻められて麻績(おみ)・青柳氏を頼って逃れ、浅川・若槻に残った一族が村上氏に従ったとき、稲積(いなづみ)の郷士でか元堀(もとぼり)(稲田字本堀)に居館を構えていた本堀将監(しょうげん)が女子を西条城主坂原氏の嫡男(ちゃくなん)に嫁すとき、化粧免として石高二五貫文の土地を与え、これが徳間稲倉組として西条村の枝郷となったという。距離(三キロメートル)が離れており、ほとんど独立して名主はじめ村役人も別であった。

 森忠政のあと、慶長八年から家康の六男松平忠輝(ただてる)が松城領主となったが、年少のため実権は大久保長安(ちょうあん)ら重臣たちにゆだねられた。長安の没後、元和(げんな)二年(一六一六)忠輝か改易されたさい、西条村は長沼藩領に編入されて佐久間勝之(かつゆき)の支配を受けた。正保(しょうほう)四年(一六四七)、五〇〇〇石分知された勝之の孫勝盛(長沼知行所)に跡継ぎがなく、領地が幕府に没収されたさい、西条村もこれに入って、以後幕府領となり中野代官所の天羽(あもう)七右衛門の支配地となった。

 天和(てんな)元年(一六八一)尾張(おわり)支藩の松平義行領(三万石)に組み込まれ、同領新野陣屋(しんのじんや)(中野)の支配を受けた。同二年、西条村から伺去真光寺が分かれて独立村となった(村高一一七石余、家数二五軒、人数二八六人、正徳(しょうとく)六年・一七一六)。

 元禄(げんろく)十三年(一七〇〇)松平氏が美濃国高須へ移封され、西条村・伺去真光寺村は再び幕府領となった。新野陣屋の代官長谷川庄兵衛が支配した。その後、中野代官所にかわり宝暦(ほうれき)元年(一七五一)新たに開設された富竹陣屋の支配下になるが、同十三年に富竹陣屋は廃止された。かわって翌明和(めいわ)元年(一七六四)、西条村押田(熊井家)に新しく西条陣屋が設けられ、建坪二四坪(七九平方メートル)二棟と六坪(二〇平方メートル)一棟の建物、ほかに二一坪(六九平方メートル)の郷蔵が建てられた。代官として同三年まで今井平三郎、のち同五年まで島隼人がつとめた。

 明和五年六月、西条陣屋は廃止となり、北信の幕府領四四ヵ村は越後高田藩榊原氏の預り領となった。この四四ヵ村は水内郡内の幕府領全部であり、西条村・伺去真光寺村を筆頭に、連名で高田藩預り役所へ西条陣屋の残置を願って嘆願書を提出した。これによると、役所までの道のりが三九キロメートルから六二~六六キロメートルの遠路となり、冬季間は深雪となり難渋このうえもなく、ことに関所(関川)を越すので急用の場合は差し支えが生じると訴えている。この訴えも認められないまま、同七年には越後川浦代官所の支配となった。

 安永(あんえい)七年(一七七八)中之条代官所(坂城)にかわり、以後中野代官と中之条代官とが交互にかわって明治時代を迎えることになる。この間、代官は、正保年間(一六四四~四八)の天羽七右衛門から慶応(けいおう)年間(一八六五~六八)の中之条代官甘利八右衛門まで四三人が西条村・伺去真光寺村を支配した。

 弘化(こうか)四年(一八四七)善光寺地震の災害の折、中野代官であった高木清左衛門(在任弘化三年・一八四六~安政(あんせい)二年・一八五五)は、浅川地区でも大被害を受けた真光寺組へ金九七両の見舞い金と米一四石を与える善政をおこなった。村人はその恩徳をたたえるため、石祠(いしほこら)を建て高木大明神として祭り今も例祭をおこなっている。