天領村の年貢

466 ~ 467

西条村・伺去真光寺村・徳間稲倉組それぞれの「年貢皆済目録」をみると、西条村は宝暦七年、村高五八六石三斗七升に対して米二四五石九斗九升と大豆二石五斗分の代永二貫九七〇文(永一貫は金一両)を納めており、租税率は四一パーセントになっている。同九年の伺去真光寺村では村高一一七石二斗八升に対して米二一石二斗と永一貫六二四文を納めており、租税率は一八パーセントである。この率の違いは、西条村は田方免(税率)五ッ六分(五割六分)の水田が多くあり、伺去真光寺村は免一ッ五分(一割五分)の畑方が主力となっているためである。幕府領村はその後物納から金納に変わり、安永二年西条村から川浦役所への明細帳には「御年貢皆金納、十月・十一月・十二月・翌三月皆済仕候」と、金納で四回に分けて納入されている。

 文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)、枝郷の徳間稲倉組は村高一三八石九斗二升に対して米五九石九斗余となっており、租税率は四三パーセントである。他の諸税合わせて永五九貫一五五文を金納している。この金納相場は金一両(永一貫)につき米一石六升五合の割合である。付加税として天領にだけかかる高掛(たかがかり)三役(御伝馬宿(おてんましゅく)入用・六尺給・御蔵前入用)はどの村でも同率で、文久二年には村高一石につき永五文かかっており、徳間稲倉では永六八六文納めている。村高と面績の関係は、西条村では村高約五百八十石が田畑合せて五四町四反(五四・四ヘクタール)あり、徳間稲倉組は約百三十九石で面績は一二町七反(一二・七ヘクタール)となっている(慶安四年検地帳)。

 年貢のほか、村では年間の諸費用を積算して村人に割り当て、代官所へ報告している。徳間稲倉組から中之条代官・平岡彦兵衛へ出した「天明六年三月 村小入用帳 西条村之内徳間稲倉組」には、総〆鐚(しめびた)二七貫八六二文(鐚銭は当時金一両=六貫五〇〇文ぐらい)の内訳を報告しており、主なものはつぎのようである。

一貫七〇〇文 郡中代の割り(中之条村名主源造へ)

六貫九〇〇文 村役の中之条役所出張費

二貫二〇〇文 祭り費(秋祭り・虫祭り・雨乞い・風祭り)

二貫一〇〇文 年貢割り村中相談入り用

二貫文    作物食荒しいのしし・しか威(おど)し銃火薬代

五〇〇文   船賃(丹波島・矢代・布野・長沼・浅野・立ヶ花)

四一九文   坂本牢屋(ろうや)入り用

二貫五〇〇文 名主給

 これらの費用を一石につき二〇八文で拠出した。