北郷村は江戸時代を通して松代領であり、本村のほか三ッ出・宝利田(ほうりだ)・市之瀬(いちのせ)・竹之下(たけのした)・畑山(はたやま)・堀之内(ほりのうち)・中曽根(なかそね)・門沢(かどざわ)の八ヵ村を枝村として管理していた。
中世の北郷村は落合領桜荘の七郷に入り、天文(てんぶん)二十三年(一五五四)諏訪(すわ)下社秋宮の造営費を負担し、のち天正(てんしょう)六年(一五七八)には同領広瀬荘にかわった。また、川中島合戦の当時、村民は越後国頸城(くびき)郡松之木郷に避難して帰村の折、蟹沢(かにさわ)(豊野町)の龍澤(りゅうたく)寺住職の世話になり、多くがそのとき同寺の檀家(だんか)になったという。その後、避難地名にちなみ松木姓を名乗るようになったという。現在も北郷には松木姓が多い。
慶長(けいちょう)六年(一六〇一)森忠政の検地により四一〇石九斗の村高が定められた。貞享(じょうきょう)三年(一六八六)新田検地があり、本新田合わせて四九三石の村高となり、天保(てんぽう)五年(一八三四)の幕府郷帳では五一七石六斗となり、その後も新田開発が進んだことを物語っている。
松代藩では、地方知行(じかたちぎょう)として藩士に領地を与え、知行主を地頭(じとう)と称した。幕末まで存続した村もあるが北郷村は江戸中期には地頭はなくなり、藩主の料所(直轄地)となった。寛文(かんぶん)元年(一六六一)の北郷村の藩士知行はつぎのようである(「真田幸道家中地方拝領之覚」)。
知行主 禄高 うち北郷村
小幡長右衛門 八〇〇石 五〇石
長井四郎右衛門 六〇〇石 五〇石
片岡五百八 三〇〇石 三〇石
大熊五郎右衛門 二〇〇石 五〇石