二 三登山入会地の山論

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 三登山(みとやま)・髻山(もとどりやま)は、善光寺平北部五四ヵ村の入会(いりあい)採草地であり、秣場(まぐさば)として利用され、田作肥料として刈敷(かりしき)や牛馬の飼料、また、薪や炭などの採取に用いられた。領主側は年貢の増収を求めて新田開発を進めた。このため、樹林地や草刈り場をめぐる村界では絶えず紛争が起こった。

 宝暦(ほうれき)八年(一七五八)五三ヵ村(西条村を除く)の名主たちは、西条村・袖之山村が三登山山頂の平地に両村なれあいで多数おしかけて畑を作っており、指導しているのが押田村の名主治太夫であるとして、同年五月富竹陣屋代官渡辺民部に訴えた。これによると、三登山・髻山は五四ヵ村第一の秣場であり、二万余石の里村の大事な場所である。ここには元禄(げんろく)年間(一六八八~一七〇四)の吉村・袖之山村対五三ヵ村の山論裁許の絵図面の基点となった虎ヶ塚(旧跡)があり、この塚まで切り崩すようすなのでもってのほかである。しかも、元禄山論では西条村も訴訟側で図面のことは十分承知のはずである、と訴えている(宝暦八年十二月江戸奉行所あて)。

 これに対する西条側の反論は不明であるが、翌年三月二十五日、評定(ひょうじょう)所において裁許されることになり、この山論は江戸奉行所まで上告されたことがわかる。この訴訟裁許は西条村・袖之山村の勝訴となり、そののち畑や治太夫の新林は残された(『浅川村郷土史』)。

 元禄山論も吉村の勝訴となったように、内野(自村の山林)で山手役として年貢も納めているとする地元の境界主張がとおった山論であった。

 このほか、飯綱山をめぐっての葛山(かつらやま)七ヵ村と戸隠村の大論争(天保(てんぽう)年間・一八三〇~四四)にも、飯綱山を境界にもつ北郷村や入会地の西条村や伺去(しゃり)真光寺村もおおいに関係した。戸隠村の敗訴により飯綱山が飯縄社神主仁科甚十郎の領有地となって入会権は残されたが、明治時代に入って飯綱山の所有を主張する仁科氏と国とのあいだで再び裁判問題となって、国の主張が認められ飯綱山は国有地となった。