慶長(けいちょう)五年(一六〇〇)松城(松代)に入封した森右近忠政が、同五年から七年にかけて、領内の総検地を実施した。きびしい検地で、のちのちまで右近検地として語りぐさになった。
北郷村は、慶長六年にこの検地をうけ、村高四一〇石九斗となった(古高四〇貫文)が、この検地帳の地名は二五四ヵ所ときわめて多数であった。
その後、松代藩では総検地はおこなわれていないが、寛文(かんぶん)六年(一六六六)に差出検地として改めて検地帳を作成した(「寛文水帳」)。その後は願いによって村ごとの検地を実施した。幕府領西条村は代官天羽七右衛門によって慶安(けいあん)四年(一五一)に検地が実施され、伺去(しゃり)真光寺と検地帳が別帳となった。のち、延宝(えんぽう)八年(一六八〇)新田検地がおこなわれ、改めて坂中と福岡が分けられた。
中世以来、枝郷として飛び地となっている徳間稲倉組の検地は慶安四年に同時に実施されて、高一三八石四斗四升が村高とされた。田畑合わせて一二町七反七畝の反別があり、安政(あんせい)六年(一八五九)には家数四四軒、人口は一四三人であった。村高の変遷は表3のようである。