用水開発と水論訴訟

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江戸時代から浅川下流の旧一〇ヵ村用水は、飯綱高原の湖沼を水源としている。大池・丸池は永禄(えいろく)年間(一五五八~七〇)、海津城将高坂弾正の家臣、小林宇右衛門の指揮により築造されたと伝えられる。のち松代藩により上蓑ヶ谷池(かみみのがやいけ)は明暦(めいれき)二年(一六五六)、下蓑ヶ谷池は貞享(じょうきょう)三年(一六八六)に築造されたことが記録に残されている。これらの池は、旧北郷村地籍に築造されたものであり、大池・丸池は北郷村の用水として利用され、現在も浅河原土地改良区の員外であるが用水は自由に使える。上・下蓑ヶ谷池は、築造当時は北郷村民有地であり、籾(もみ)五俵を年貢として支払っていた。

 丸池は享保(きょうほう)二年(一七一七)、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の二回決壊し、下流の耕地を損耗した。弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺地震のさいには蓑ヶ谷池も決壊して、二町六反(二・六ヘクタール)の耕地を荒地にした。最近では昭和十四年(一九三九)の論電ヶ谷池(ろんでんがやいけ)の決壊もあり、過去の災難を何回も克服して用水は守られてきたが、これも水田が農民の生活の根源であったことによる。

 昭和二十一年には猫又池が完成して貯水量も増大したが、干ばつになれば見張り役の「水番(みずばん)」をする苦労は戦後も当分つづいた。往時の灌漑(かんがい)面積は三六〇町歩(三五七ヘクタール)であったが、住宅開発や減反政策によって現在は七五ヘクタールと面積も減って、浅川地区の水田地帯も現在はアパート・住宅が密集している。

 用水の歴史は同時に水争いの歴史でもあり、旧村には用水をめぐる訴状や和解証文が多く残されている。なかでも幕府領である西条村と松代領北東条村の水論は、安永(あんえい)七年(一七七八)から天明(てんめい)二年(一七八二)の五年間にわたる論争であり、北東条村は江戸評定所まで提訴した争いであった。ことの起こりは、水の乏しい駒沢川から引水する西条村耕地の一部に、浅川用水の東条堰(せぎ)から水田面を下げて、ここに新たな堰を掘って分水していると北東条村が訴えたもので、西条村の言い分は、古堰がありこれを掘り直して利用したまでと、双方折り合わず、天領・私領のむずかしさもあり問題は長引いた。江戸評定所から御料所側の牟礼(むれ)宿、松代領側の後町(ごちょう)村と双方から取扱人が指名されて調停し、堰の一部を埋めることで和解した。