浅川真光寺に石油の産出があったことは伊勢御師(おし)で国学者の荒木田久老(あらきだひさおゆ)の『信州下向日記』(天明(てんめい)六年・七八六)や井出道貞(いでみさちさだ)『信濃奇勝録』(天保(てんぽう)年間)にもみえることから、江戸中期ごろには産出したことがわかる。当時は臭水(くそうず)(草生水)と呼ばれ、灯火用に使われていた。
弘化四年の善光寺地震ののち、真光寺のあちこちから燃えるガスが噴出して、あたりは新地獄といわれた。権堂村名主の永井善左衛門は、これを見物して絵に描いて『地震後世俗語之種(じしんこうせいぞくごのたね)』として残している。
石油の採取を本格的に始めたのは真光寺の新井籐左衛門である。安政(あんせい)年間(一八五四~六〇)に一二本の井を掘り、一昼夜に一〇石(一・八立方メートル)以上の産出をみたという。このほか数人の人たちも穿井(せんせい)を初めてみな掘り当てた。のち籐左衛門は石油の神様の持国大明神として祭られ、地震の恩人であった中野代官高木清左衛門の高木大明神と並んで石祠(いしほこら)が建てられている。
明治四年(一八七一)に産出量七一六石(一二九立方メートル)、同八年は六ヵ月で一二四二石余(二二四立方メートル)に達した。これに着目して飯山出身の石坂周造(山岡鉄舟の縁者)は、同四年に日本最初の石油会社「長野石炭油会社」(のち「石油会社」と改称)を創立して石堂町かるかや堂で操業を始めた。同八年場所を移して営業したが、産出量も減じて同十一年、石坂が引退して会社は閉鎖された。かるかや堂(西光寺)墓地には、石油会社に関係した四人(他県人)の墓が残されている。
明治十年以降は湧出(ゆうしゅつ)量が減っておおかたは廃業に追い込まれたが、一部の油井(ゆせい)は昭和初期までつづき、天然ガス利用のガラス工場もできて操業は昭和四十二年までつづいた。近隣の小学生も見学に来て、その思い出は多くの人たちに残されている。現在もコンクリート枠の油井が一基残っており、地上から石油層まで約五十メートルの深さで今も少量の石油が出るが利用はされていない。市文化財として調査中である。