江戸時代、善光寺から北国街道へ抜ける近道として、上松ー押田ー西条ー蚊里田八幡社を通る道がおおいに利用された。『県町村誌』東条村の項にも「北国脇道(わきみち)」とされている。天明(てんめい)四年(一七八四)文人の菅江真澄(すがえますみ)もこの道を通って東北へ旅している。その紀行文には押田村を経て西条に着く、ここには雁田(蚊里田)神社があって参拝のあと松の下で昼寝して寝過ごした、と蚊里田神社のようすを挿絵(『菅江真澄民俗図絵』)に描いて詳述している。また、同六年、荒木田久老(あらきだひさおゆ)は檀家(だんか)回りの折、ブランド八櫛(やくし)(薬師)の参詣(さんけい)や押田村・西条村を回って若槻の村へ向かっている。わずか幅二メートル足らずの道であったが著名人の記録に残されている街道である。