善光寺地震

477 ~ 477

江戸時代から現在までを通して、もっとも大きな災害をもたらしたのは弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震である。浅川地区にも記録が残されており(『浅川村郷土史』)、各村は大きな被害を受けた。真光寺村では、二九軒のうち一六軒が潰(つぶ)れて一八人が死亡した。三軒は家中が土中に埋まり家内全滅、西条村も、西組(押田)は五八軒のうち潰れ家二五軒、半潰れ二二軒、八人が即死、東組も皆潰れ二二軒、半潰れ七軒、徳間稲倉組は皆潰れ二〇軒、台ヶ窪(だいがくぼ)も皆潰れ五軒、半潰れ一三軒におよぶ。坂中の記録は焼失したが、四〇軒のうち半潰れ二軒のほかは全部潰れて一三人が死亡したと伝えられた。中野代官高木清左衛門はただちに救援米や見舞い金を出して善政を感謝され、石祠(いしほこら)に祭られている(前掲)。

 北郷村についての潰れ家の記録はないが、北郷街道は崩れて不通になり、ブランド薬師も岩ごと落下して石像もこわれて跡形もなくなったという。家の被害も他村同様であろうと推察できる。