寛保(かんぽう)二年(一七四二)七月末から八月の大洪水は各地に供養塔や碑が建てられており、戌(いぬ)年であったことから「寛保戌(かんぽういぬ)の満水」として語り継がれている。長沼の玅笑(みょうしょう)寺境内にある千曲(ちくま)川大洪水水位標には、このときの水位は地上三・三八メートルあり、群を抜いた高さで、いかに大洪水であったかがわかる。西条村の記録では、駒沢(こまざわ)川の氾濫(はんらん)で土堤一〇〇間(一八〇メートル)が流されて郷倉も流出し、下流の耕地は土砂が入り、取り除かれてできた石塚は今もところどころに残っていると記されている(『浅川村郷土史』)。