江戸時代から明治初年に学制がしかれて村々に小学校ができるまで、庶民の教育は寺子屋でなされた。浅川地区の寺子屋師匠は西条村一〇人・伺去(しゃり)真光寺村五人・北郷村九人の二四人があり(『上水内郡誌歴史編』)、うち筆塚(墓型を含む)の建てられているもの一七人である。なかでも北郷の松木又左衛門は四代一六〇年間、寺子屋師匠を相伝した。初代の頌徳(しょうとく)碑は大池近くの字斗峰(はからみね)に建てられた「知恩塚」である。正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)の碑で、これは北郷村と他村との間で境界争いがあり、又左衛門たちがこの山から見渡して村境を確認して和解した。その後、この山の地名を斗峰と称するようになった。近隣地区に例をみない古い筆塚である。三代又左衛門の筆塚も嘉永(かえい)二年(一八四九)の建立であるが、正徳(しょうとく)から享保(きょうほう)(一七一一~三〇)にかけて初代の功績が刻まれている。
清水の清水金左衛門も、輝行・輝義と父子二代にわたって愛育軒と称して読み書きを教えた。押田に筆塚(天保(てんぽう)九年・一八三八)の建てられた熊井喜平治も父子相伝の師匠となり、二代の喜平治は安政(あんせい)から明治初年にかけて算学師匠として名をなした。伺去(しゃり)の轟市右衛門も算学師匠として筆塚(墓型)には「算弟中」とある。
青年期には実用から一歩進んだ漢学や和算を修学するものも多くあり、明治初年には若槻東条の花岡馥斎(ふくさい)(佐久間象山門下)が開いた「補仁(ほにん)塾」や宮下賢治の和算塾にも浅川から通学して筆塚の門弟名に名をとどめている。