三 学校教育の進展

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 明治五年(一八七二)の学制公布により、同六年十二月、浅川地区では伺去(しゃり)真光寺村(中村)に清真学校が開校した。これには浅川全域と檀田(まゆみだ)村の児童が就学した。つづいて北郷(きたごう)村(本郷)に北郷(きたごう)学校が開校され北郷村の児童はこれに移った。翌七年には西条・檀田の両村は清真学校から分かれて西条村(押田)につくられた開育学校に通学した。当時の戸長(村長)や学校世話掛(のちの学務委員)が就学の督励に奔走したが就学率は低く、明治六年初年度の清真学校の就学率は男子一三六人のうち九六人(七〇パーセント)、女子は全員不就学であった。その後新教育の督励普及によって認識も改められ、就学率は徐々に向上した。同八年には学齢男子一八八人のうち一六三人(八六パーセント)、女子一四六人のうち七一人(四九パーセント)で、ともに郡平均よりよく、とくに女子は二倍以上であった。

 明治十一年九月八日、明治天皇は維新後の民情視察のため、北陸ご巡幸として長野へも来られた。大勧進を行在(あんざい)所に二泊されて、師範学校では県下四小学校の優等生を集め天覧授業がおこなわれた。十日朝、北国街道を新潟県へ向かわれ、開育・清真両学校の生徒は稲田(若槻)の街道沿いに整列して奉迎した。右大臣岩倉具視(ともみ)以下文武官、兵卒巡査人足を含めて約二千人と馬百余匹の大行列であった。お召し馬車通過のときは最敬礼をして、お顔は拝されなかったという(『浅川村郷土史』)。

 明治十八年、連合戸長役場の設置により浅川・若槻等の各村は、東条村に一〇ヵ村連合戸長役場を設置し一つの行政区となり、学区も統合されて同十九年四月から本校は東条学校と称され、旧承運学校(若槻東条)があてられた。開育学校は西条支校となり、清真学校は西条支校に統合された。北郷学校は北郷支校となり、新たに坂中・清水・畑山・門沢に派出所が設けられ、派出所では授業生(訓導助手)が教えた。同二十年四月から派出所は簡易学校となった。連合戸長役場の設置は四ヵ年で改正されて、明治二十二年四月町村制による浅川村の成立とともに村立浅川尋常小学校の設立となり、西条支校が本校となった。北郷支校ほか四ヵ所の簡易小学校は存続して尋常小学四年が義務制となった。同二十五年、坂中・清水・畑山の簡易学校は本校に、門沢は北郷支校に、それぞれ統合されたが、その後も冬期間は冬期分室として利用された。卒業生は希望により一ヵ年の温習科または長野高等小学校(四ヵ年)に進むことができたが、実生活にあった温習科の希望が多くあった。

 明治二十八年、初代専任校長として赴任した小沢錦十郎の提案によって、小学校卒業から徴兵検査(二〇歳)までの勉学講座として明倫館(めいりんかん)が開校された。主に冬季間で、男子は夜学で倫理・国語、女子は一八歳まで裁縫を習ってその成果は大きく、県や郡からも視察や見学に訪れた。

 西条の本校は開育学校当時のままで窮屈となり新校舎建設の必要に迫られたが、位置の問題で村はおおいに混乱した。明治三十五年、村のほぼ中心である伺去立石地籍に学校敷地が決まり、翌三十六年十一月十五日に開校式がおこなわれた。校庭も広がり、同日初めての記念運動会が実施された。のち、この校舎も増築問題に端を発し学校移転となり、昭和十一年(一九三六)浅川東条二一九番地に新校舎が落成して伺去立石から移転した(現支所)。同十六年より同二十二年まで浅川国民学校と改称され、初等科六年・高等科二年の八ヵ年が義務教育となった。