六・三制の発足

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戦後の教育は連合国の占領政策のもとで大改革がおこなわれた。小学校六ヵ年の上に三ヵ年の中学校を置き、義務教育は九ヵ年となり、浅川中学校が小学校に併設された。昭和二十九年(一九五四)、市合併により適正規模の中学校の必要から同三十四年、若槻中学校との合併による長野市立北部中学校が両中学校の中間地点である屋敷田地籍に新築された。平成八年(一九九六)現在二四学級の大規模中学校となっている。

 昭和四十年代からの住宅増加にともない、それまで三〇〇人前後であった浅川小学校の児童数も四十年後半には六〇〇人を超える急増となり、教室が不足した。しかし傾斜地のため増築の余地がなく、同五十年十月に近くの水田地帯であった浅川東条三三七番地に新築移転された。そのときの児童数は八〇〇人と増加し、さらに増設されて現在にいたっているが、団地人口の高齢化によって児童数はその後減少し、平成八年度は学級数一三、児童数四三〇人となり空き教室も目立っている。

 北郷分校も明治六年北郷学校として開校以来、地域社会の教育の中心として長い伝統をもつ学校であったが、昭和四十四年、九五年の歴史を閉じて本校に統合され、児童はバス通学となった。門沢分室も同四十六年度で廃止され、同四十七年度からはバードライン経由で城山小学校にバス通学することになった。

 平成元年は浅川小学校の開校百周年にあたり、同年十月二十三日百周年記念行事が実施された。当日は初代校長小沢錦十郎の孫にあたる、タレントの小沢昭一の「明日のこころ」と題する記念講演があり、大盛況であった。

 同二年二月には『浅川小学校百周年記念誌』が刊行された。