一 戦後の復興と民主化

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 昭和二十年(一九四五)八月十三日、米軍機による長野方面の空襲は、川合新田の飛行場、国鉄工場・機関区、若槻療養所などが目標とされ、爆撃や機銃掃射によって四六人の尊い生命が犠牲となった(「長野空襲を語りつぐ会」調べ)。

 二日後の八月十五日正午「終戦の詔書」が放送されて、四年におよんだ太平洋戦争も敗戦という過去に例をみない非常事態となって終結した。十一月には進駐軍による軍政部が鐘紡長野工場に設置されて、その占領政策によるさまざまな指令が発せられた。

 翌二十一年、戦争責任者の公職追放により、戦時中の村長をはじめ、職業軍人・大政翼賛会・軍人分会の会長らは、同二十六年の追放解除の指令が出るまで公職につけなかった。

 同二十年十二月には農地改革指令が出され、同二十一年から二十三年にかけておこなわれた農地改革によって、小作地の大半は耕作者に解放された。これは不在地主、法人の所有する農地の全部、在村地主でも六反歩以上の小作地などの売り渡しである。浅川地区でも農地面積四一五町歩(四一一ヘクタール)のうち、三八・七町歩(三八ヘクタール)が小作者に売り渡され、これは全農地の約九パーセントであった。