大豆島村の成立

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大豆島(まめじま)村は近世には更級郡に属していた。つまりもとは犀川の南側にあったわけである。しかしたびたびの川欠けで耕地を失い、犀川の北側へ移ることになった。松岡新田(まつおかしんでん)村は大豆島村の新田だったが、近世初期に開発され、独自に村役人をもって、事実上独立の村となった。

 明治六年(一八七三)、大豆島村に合併した。

 風間(かざま)村は一ヵ村として扱われたが、事実上は東風間・西風間の二ヵ村に分かれており、幕末にはそれぞれ独立の村になった。しかし、明治五年、合併して風間村となった。

 同年、戸籍区が決められたとき、更級郡大豆島村と松岡新田は第三七区に、水内(みのち)郡東風間村と西風間村は第五四区に属した。同七年には大小区制ができて、風間は高田(たかだ)・長池(ながいけ)などと共に第二二大区第一小区に、大豆島は川合新田(かわいしんでん)と共に第一六大区第九小区になった。

 明治十一年七月に郡区町村編制法という法律ができて、新しく郡が決められ、長野県は従来の一〇郡が一六郡に増え、水内郡も上・下両郡になった。大豆島村・川合新田は同十二年七月に上水内郡に編入された。同十八年五月に連合戸長役場ができ、栗田(くりた)・稲葉(いなば)(千田・南俣)・中御所(なかごしょ)・若里(わかざと)(市村・荒木)・大豆島の諸村がひとつにまとまり、戸長役場は稲葉に置かれた。明治二十二年町村制が施行されることになり、その準備として二十一年、県は合併案を作って、郡長を通して村々の意見を聞いた。原案は大豆島・川合新田・風間の三村合併たった。これに対し、大豆島は独立を望み、他の二村は連合戸長役場の範囲諸村の合併を望んだ。郡長は原案どおりがよいと答申したが、県は川合新田を芹田村へ付け、大豆島・風間両村を合併させ、大きい大豆島村をそのまま村名にすることに決めた。役場は大字大豆島の民家に置かれた。役場の人員は村長・助役・収入役と書記二人だった。明治二十九年、大豆島中島に移り、書記は三人になった。明治三十五年から昭和十四年(一九三九)まで三七年間書記は四人だったが、同十五年五人、同二十年七人、終戦後は事務内容が急に増え、同二十三年役場を新築したとき一八人、合併時は一九人だった。