風間郷

498 ~ 498

 鎌倉・室町時代には信濃の郷村はみな諏訪大社の祭に奉仕するよう義務付けられていた。風間郷は文安(ぶんあん)六年(一四四九)から文明(ぶんめい)十七年(一四八五)まで、五回にわたって上社の祭の頭役をつとめた。長禄(ちょうろく)三年(一四五九)には保科駿河守(するがのかみ)満重、寛正(かんしょう)二年(一四六一)・応仁(おうにん)二年(一四六八)には風間安芸守光貞が、文明十二年には村上与四郎高国が、同十七年には原有源がそれぞれ領主だった。原氏は風間氏の代官だったこともあり、長くつづいていたが戦国時代には衰えた。