風間館跡

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風間には風間神社の神主から起こった風間氏がある。諏訪神氏系ともいう。

応永(おうえい)七年(一四〇〇)大塔合戦のとき、村上満信に従って戦った武士のなかに風間宮内少輔(くないしょうゆう)がいる。同じグループに属した武士のなかに、千田(せんだ)・吉益(よします)(市村)など近郷の武士がいるから、風間は大豆島地区の風間氏であろう。風間安芸守(あきのかみ)光貞は寛正(かんしょう)二年(一四六一)・応仁(おうにん)二年(一四六八)の二回、諏訪上社の祭の頭役をつとめている。天正九年(一五八一)伊勢御師(おし)宇治久家が信濃の檀家(だんか)に御祓(おはらい)・土産などを配って歩いたとき、「風間の大夫式部少輔」にも配っている。たぶん風間氏の子孫だろう。

 風間館は今の常福寺の寺地である。東西約二十間(約三十六メートル)、南北約二十二間(約四十メートル)の寺地は堀に囲まれていた。二、三十年前まで、その堀でこどもがスケートを楽しんだ。この寺はもと山田光教寺と称し、川中島の役後、山田(高山村)からここに移ってきたという。おそらく館跡へ移って来たのだろう。このあたりは元和(げんな)八年(一六二二)真田信之が松代へ入封(にゅうほう)したとき、その三男信重の所領となり、信重はこの寺内に鷹場(たかば)の茶屋を設けた。一種の陣屋であろう。


写真2 常福寺(東風間)風間館跡に建立