式内社風間神社があるから、風間には古代からムラがあったのだろう。しかし、郷として文書に出てくるのは、室町時代からである。文安(ぶんあん)六年(一四四九)に風間が諏訪大社上社の御射山(みさやま)祭の頭役を割り当てられたのが文献に見えるはじめである。風間氏が戦国時代まで住んでいた。慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の森検地で四〇五石だったが、「天保郷帳」で六九〇石と増加している。安政(あんせい)三年(一八五六)に家数一三一戸、慶応四年(一八六八)の家数人数は東風間六六戸・三〇三人、西風間一七四戸・三七二人、ともに松代領だった。