大豆島村

504 ~ 505

村名の初見は天正(てんしょう)九年(一五八一)で、伊勢御師宇治久守が檀家(だんか)(神主の氏子)めぐりをしたとき、まめじまの下総と、同中村半右衛門にのり五〇本、茶一〇袋ずつを配っている。これは一流の土産で、長沼城在番の長沼・和田・島津・栗田・平林・若槻ら有力諸将と同じ額である。風間の式部少輔は、のり二〇本、茶五袋である。これでみると、大豆島(まめじま)は大切な場所で、有力武士が配置されていたらしい。

 東風間の荒神社跡の地に中村備後守貞顕の墓と伝えられる古墓があり、中村半右衛門もその一族だろう。

 その後洪水で荒廃し、森検地ではわずか一三三石で風間の三分の一になってしまった。その後更に耕地が減り、ついに村高一〇石余、農家六戸となってしまった。慶長年間(一五九六~一六一五)、松平忠輝の城代花井吉成が、裾花川を旭山の麓(ふもと)から南へ流したので、犀川の流れもやや南へ傾き、大豆島地区は開拓され、万治(まんじ)三年(一六六〇)、元禄(げんろく)十六年(一七〇三)などに検地を受け、天保(てんぽう)十年(一八三九)当時は本田七五三石、新田四一四石の大村になった。正徳(しょうとく)元年(一七一一)の千田村の訴状で、千田村は「大豆島村はもと川南で二六六石だったが、だんだん川北へ新田を開き、七、八年前竿請けをして千石余になった」と述べている。

 大豆島の戸数・人口は寛政(かんせい)十二年(一八〇〇)一七九戸、八九九人、天保十年二八八戸、一二一六人で、開発が進むにつれて増えている。

 村内は西組・東組に分かれていたが、名主(明和元年まで肝煎(きもいり))は一人たった。享和・文化のころは皆済目録などは組別になっている。

 こういう場合、ふつう名主・組頭・長百姓の三役人を別々に立てるが、大豆島では長百姓だけが二人だった。