天保十年当時の大豆島村の百姓の持高は表3のとおりである。一石以下または無高が一二〇戸と半ばを占めている。幕府がいちおう百姓の成り立つ基準とした一〇石以上は二二戸しかない。このように大小の差が開き、小百姓が増えてくるのは、多くの村でみられる傾向である。大豆島では、はじめ百姓が二〇人で、慶安(けいあん)二年(一六四九)に新田ができたので一三人を百姓に取り立て、明暦(めいれき)三年(一六五七)七人を加え、万治三年の総検地のとき、高に入れて四〇人で百姓をつとめるようにしたという(「川役相続願」『四ヶ郷用水誌』)。
大豆島村は天保十年には、年貢と村費あわせて六七七両を納めたり、支出したりしている。年貢六六パーセントに対し、村費は三二パーセントで、村費の六五パーセントは川除の費用だった。ひじょうに複雑な計算をして年貢・村費を割り当て集めるので、時には村役人層と小前(平百姓)との紛争が起こることもあった。