二 小前騒動

506 ~ 507

 嘉永(かえい)七年(一八五四)大豆島の小前一同が、名主の勘定や村費のかけ方に疑問があると藩へ訴えた。藩では、村役人に対し、嘉永三年から六年までの帳面を小前に見せて、疑いを晴らすよう申し渡した。調べてみると、村役人が小前に相談しないでかってに割り当てた金などがいろいろ見つかった。それで風間村宇平治と南長池村の弥惣八を仲済人として、次のような規定を作った。

1、上納や臨時の村費割りなど、みな納得するよう、紙に書いて渡す。

2、三役人は入札(選挙)で決める。名主は年番にする。

3、御用・村用で城下へ往復するときの小遣いは一日一〇〇文ずつ。

4、役場の費用はなるべく節約する。

5、村内へ費用を割り当てるときは、郷中へ触れ流す。

(名主一・組頭一・長百姓四・頭立二二・重立二・小前惣代二・郷中惣代五・立会人二署名)

 松代藩では村のおもだった百姓を頭立(かしらだち)に指定し、村役人はなるべく頭立から出すことにした。しかし、だんだん小前にも有力者が成長し、村役人のうち、一人は頭立から選ぶように変えた。村役人を入札(選挙)で決めることは、北信濃ではごくふつうのことで、大豆島は遅いほうであろう。

 松岡では村役人年番制を決め、一覧表を作って、公平にすべての家で順番に役人をつとめることにした。

 近世には村役人の仕事がひじょうに多く、負担を平等にするため、年番制をとることが多かった(隣村川合新田では、開発地主北村門之丞家が特権として名主をつとめなかった)。