大豆島(まめじま)村はもともと永四〇〇貫の場所で、百姓二〇人で川役をつとめていたという(享保三年訴状)。永四〇〇貫はほぼ千石(上田藩では永一貫を二石四斗七升に換算)に当たり、持高二五石くらいの百姓二〇人ほどで成り立つ村だったのだろう。近世初期には大洪水により、一時亡村に近くなったが、その後しだいに復興した。
万治(まんじ)三年(一六六〇)・元禄(げんろく)十六年(一七〇三)など数次の検地を受けて、石高は一三二二石に増えた。
当然のことながら、本田は田が多く、新田は畑が多い。村全体としては田の多いほうである。しかし、川に近いため、湿田が多く、雨の多い年は不作がちだった。