大豆島開発を物語るもっとも重要な文書は、慶長(けいちょう)十六年(一六一一)松平忠輝から大豆島百姓中へ与えられた「さけ取り権承認」の文書と、それにつづくさけ運上についての二通の文書である。この文書は大豆島村にとって貴重であるだけでなく、全国的に見てもきわめてめずらしい史料である(長野市指定文化財)。
松平忠輝(一五九二~一六八三)は徳川家康の六男で慶長八年松城(まつしろ)(松代)城主となり一八万石を領した。忠輝はまだ一二歳だったので、実権は補佐役の大久保長安が握り、松城城代には花井吉成が任ぜられた。長安も吉成ももと能役者出身で親しく、また吉成は忠輝の母茶阿局(ちゃあのつぼね)に引き立てられた。長安も吉成も外国の新しい技術を導入して工事をおこない、長安は佐渡金山・石見銀山などの開発に大きな功績をあげ、吉成は白岩(しらいわ)を掘って裾花川の旧川筋に多くの水田を開いたと伝えられる。
裾花川は古代にはかなり北を流れていたらしく、次第に南に流れをかえ、最後の川筋は古川堰(せぎ)だったらしく、長池地籍で犀川に合流していたらしい。ところが、裾花川が白岩からまっすぐ南へ流れて丹波島で犀川に合流することになると、犀川の流れがそれに押されて次第に南へ移るようになった。犀川の南側(右岸)にあった大豆島の耕地はほとんど流失してしまった。
忠輝は慶長十五年に越後福島城六〇万石に移されたが、松城城代はそのままだった。
松平忠輝老臣連署状が慶長十六年大豆島村に与えられ、次のように書かれている。
「先例に任せて大豆島村へ鮭(さけ)打切りを申し付ける。近年、鱸(すずき)理介が長池両郷へ申し付け、年貢の魚なども前より増して申し付けたそうだが、理介が死んでしまったので、事情が不明であるから、まず大豆島へ申し付ける。もし長池から異論が出たら、両方の言い分を調べることにする。また綱島(つなしま)・河合(かわい)・鍛冶沼(かじぬま)三郷の荒地を自由に開拓してもよい」(写真8上)
打切りというのは川をせきとめて魚を取ることで、一時長池両郷(北長池・南長池)がその権利を与えられていたが、慶長十六年からは、先例どおり大豆島がかわってその権利を与えられることになった。また更級郡にあった大豆島の地が、流れの変化等で失われたので、そのかわりに綱島・河合・鍛冶沼(丹波島)の荒地を自由に開拓してよいと申し渡されたのである。
元和(げんな)元年(一六一五)重ねて松平忠輝老臣筑後守から「打切り」権が認められたが、同二年忠輝か改易され、同四年酒井忠勝が松代城主となった。忠勝も入封後間もなく、大豆島村に「鮭(さけ)打切り」を命じ、一〇本のうち四本は上納せよと命じ、監視の役人を派遣すると指示している(写真8下)。この「打切り」は明治初年までつづいた。
『町村誌』の大豆島のところに、次のように書いてある(口語訳)。
「サケ・コイ取場
本村の南東の方、千曲川と犀川との合流点落合の上下にある。毎年秋から冬にかけて、二つの川に竹簾(すだれ)を張り、たくさんのサケを取る。近年サケの子を取って諸国の大川へ送っている。いくいくは国益になろう。昔からこの場所でサケ・コイを取って領主真田氏へ出し、そのかわりに諸役を免ぜられたが、明治四年廃止された。」