慶長(けいちょう)十六年(一六一一)、松平忠輝は大豆島(まめじま)村に綱島(つなしま)・河合(かわい)・鍛冶沼(かじぬま)三郷の荒地を自由に開拓してよいという許可を与えた。四ヶ郷(大豆島・風間・松岡・千田)用水はこの命令にもとづき、荒地を開拓するために犀川から引水したといわれる。
千田村は裾花水系の山王堰の水も利用しているが、他の三村はもっぱら四ヶ郷用水に頼っていたので、この用水はいわば命の綱だった。ことに大豆島村は堰元として、その用水の維持、保全につとめた。
取入口は犀川に菱(ひし)わくや簗手(やなて)(仮堤防)を組んで取り入れるのだが、その年々の川のようすにより、場所を移動せざるを得なかった。このため、市村・荒木村・青木島村などの取入口のある村と紛争を生じがちたった。水防の土手では、取入口は弱点になるので、地元の村は歓迎しなかった。文化(ぶんか)七年(一八一〇)には荒木村に揚口を作るため、地元に迷惑をかけないという一札を入れている。