大豆島・松岡・風間三村は、四ヶ郷用水による犀川の水だけを用い、千田は犀川の水のほか、裾花川系の山王堰(さんのうせぎ)の水も使っていた。しかし、裾花川の水はいつも不足ぎみで、ことに干ばつの年は末流の千田村までは水がこないので、千田村は四ヶ郷用水から少しでも多く水を引こうとし、新しく堰(せぎ)を作ったりして、他の三ヵ村との間に争いが起こりがちだった。宝永(ほうえい)七年(一七一〇)千田村が四ヶ郷用水から不法に引水し、三ヵ村側が千田村の新堰をこわしたという問題で、双方がそれぞれ出訴し、千田村の一部は幕府領なので、松代藩では裁判ができず、幕府の評定所へもち上げられ、正徳(しょうとく)二年(一七一二)に判決がくだり、千田村が二分、三ヵ村が八分を使用することになった(この裁許状は大豆島区有文書に現存する)。この分配法はその後長く四ヶ郷用水の慣行として守られた。明治十九年(一八八六)、県に報告された「慣行調書」によると、この用水の費用の負担は正徳二年の裁決に従い、大豆島の五、松岡一、風間二、千田二の割だった。