洪水

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大豆島は近世初期は水内(みのち)郡に属し、のち更級郡となり、明治後また水内郡に復するなど、千曲川・犀川両大河の洪水になやまされた。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の「戌の満水」や弘化四年大地震後の洪水でも大きな被害を受けたが、洪水により死者が出たことは伝えられていない。千曲川は南から直接真島地区にぶつかり、犀川は右岸(南側)に強く当たるので、近世以降の大豆島地区は全滅的被害を受けることは免れた。

 明治二十四年(一八九一)八月、犀川の堤防が決壊し、大豆島の田畑は冠水して大きな被害を受けた。被害視察のため、勅使毛利左衛門が派遣された。大豆島有志は、同二十九年、堤防の改修を機に金毘羅社の横に「治水碑」を建てた。堤防には約二百メートルにわたり桜が植えられ、この堤防は桜堤(さくらづつみ)と呼ばれ、名所になった。しかし昭和二十一年(一九四六)の洪水に桜は根が洗われて危険になったので、消防団員は枝を切って「木流し」(水流をやわらげる手法の一つ)を行い、桜堤の桜はほとんどなくなってしまった。

 昭和二十四年九月二十三日の朝、裾花川堤防が九反で切れ、洪水の主流は鐘紡工場から東に向かい、松岡を侵し、ここで二つに分かれ、一つはそのまま東進して大豆島学校方面に向かい、一つは風間方面を侵した。床上浸水が全戸の三分の二、被害のなかった家は一三戸にすぎなかった。農作物の八割が冠水した。


写真11 治水記念碑(明治29年)と金毘羅社 うしろは長野市清掃工場