長野飛行場は昭和十三年、市直営の飛行場として、松岡・川合新田に開設された。約七万五千坪、幅三〇メートル、長さ六三〇メートルの滑走路を備え、昭和十四年七月から十六年太平洋戦争勃発まで、羽田-長野-新潟と羽田―長野―富山―大阪間の定期航路が開設された。
昭和十九年八月、大本営をはじめ国の中枢機関を松代に移すことが決まり、大型航空機の発着可能の飛行場が必要となり、滑走路は松岡から西風間藤興寺(とうこうじ)北側まで約三百メートルほど延長すべく工事が始められた。このため、西風間の民家三戸が移転させられた。
また、飛行機をかくすための掩体壕(えんたいごう)も三十余ヵ所作られた。飛行機も昭和二十年四月末ごろからにわかに数が増し、六〇機以上に達した。大部分は赤トンボといわれる練習機だったが、最新鋭戦闘機も二、三機あった。松岡神社の森には隼(はやぶさ)(戦闘機)がかくされていた。 昭和二十年八月十三日に飛行場にアメリカ軍艦載機グラマンF6F戦闘機による空襲があり、午前六時五〇分ごろから午後四時ごろまでの間に四回にわたり、飛行場を中心に銃爆撃を繰りかえした。「隼」に向かって落とされた爆弾により松岡の民家の防空壕がくずれ、幼児三人が死亡、家族三人が負傷した。
大豆島小学校では北校舎と南校舎との間の中庭に爆弾が落ち、校舎の一部がこわれたが、火災は起こらなかった。また、夏休み中で生徒がいなかったので、負傷者はなかった(『ふる里大豆島の空襲』)。
なお、飛行場は松岡集落に接する川合新田にあったが、拡張地域は西風間の風間神社・藤興寺西まで延びていた。予定地の東側の道路だけは現在も残っている。