代々の師匠

523 ~ 524

大豆島(まめじま)地区には東風間七、西風間四、大豆島九、松岡二、計二二基の筆塚が知られている。善光寺境内にも一基ある。「読み書き」の師匠のものが大部分だが、ほかに花の師匠が三基、謡の師匠が二基ある。

 東風間には北村通明・通考・春庵・通春の四人の筆塚が同じ場所にある。寛政から明治初年にかけて、みな医者で寺子屋を開いて教えた。西風間藤興寺には応山・玄竜・在静の三人の僧の筆塚がある。藤興(とうこうじ)寺の前身薬師堂の住僧で年代は文化(ぶんか)(一八〇四~)から明治十四年(一八八一)にかけてである。大豆島中区宝樹軒(公民館)にある栄旭・寛瑞の碑も、庵主の筆塚である。大豆島中区の中沢東堂は市河米庵に師事し、書の弟子が多かった。明治十三年没。その子貞亮は東風間の北村春庵らに学び、約四十年間師匠をつとめた。このように、何代もつづいた寺子屋がいくつもあった。大豆島火葬場跡には天台派修験(山伏)増尾萬山法印(明治三十八年)と浄土宗の僧呂白の筆塚(明治六年)かある。


写真14 北村家4人の筆塚(東風間)みな医者で寛政期(1789~1801年)から明治初年にかけて寺子屋を開いて教えた