謡曲・花・俳諧

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西風間の竹内善兵衛知寿は川合新田の北村剣寮に観世流謡曲を学び、奥義をきわめた。その門人は一二〇〇人におよんだという。明治十八年、六二歳のとき、門人が善光寺本堂の西に寿碑を建てた。大豆島の山岸岳堂(阪吉)は明治期活躍、「北信濃」という小謡を作った。

 遠州流生け花もさかんで、東風間の北村正信は寛政から文化のころ、門弟三〇〇人におよんだ。大豆島下区の中野氏は文政(ぶんせい)四年(一八二一)ごろから生け花を教え、黄鶴斎(こうかくさい)の号を三代伝えた。

 俳句は幕末、明治のころに栄え、松岡の藤沢柳斎は松代藩主真田幸弘(菊貫)の門人立左(りゅうさ)の庵号松涛(しょうじゅ)軒を大室の篤石(とくせき)から継ぎ、明治末から大正にかけて活躍した。