行政区画の分合

535 ~ 536

明治初期までの朝陽(あさひ)地区は、屋島地区のみが高井郡に属し、他は水内(みのち)郡であった。また南屋島(綿内(わたうち)村土屋坊(どやぼう)組)のみは須坂領で、他の北堀(きたぼり)・南堀(みなみぼり)・石渡(いしわた)・北尾張部(おわりべ)・北長池・北屋島(福島(ふくじま)村西組)の村々は、すべて松代領であった。

 明治五年(一八七二)、区制の実施により、北堀・南堀・石渡・北尾張部・北長池の五村は、第五三区に属した。北屋島(当時は福島村西組)は第三九区、南屋島(当時は綿内村土屋坊組)は第三八区であった。

 明治七年に実施された大小区制では、北堀・南堀・石渡の三村は第二二大区第五小区、北尾張部村は第二二大区第四小区、北長池村は第二二大区第一小区に属した。また、北屋島は第一七大区第四小区、南屋島は第一七大区第三小区であった。

 明治九年、北堀・南堀・石渡の三村は合併して福田村と称したが、明治十四年には再びもとの三村に分離した。明治十九年、上高井郡福島村西組(北屋島)と上高井郡綿内村土屋坊組(南屋島)は合併して、郡の所属も変え、上水内郡屋島村となった。


写真2 北長池水原神社南のがけ 南高田から長くつづく段丘下の小さなハバで、左方は裾花の古川跡という