四 長野市への編入合併

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 朝陽村は昭和初期の不況期には貧弱村として国や県の保護を受けたこともあった。十九年(一九四四)に長野市から近村六ヵ村に合併申し入れがあったが実現しなかった。

 戦後は立ち直りが早く、昭和二十八年には全国町村会定期総会で全国四四の優良村の一村として表彰され、全国から視察に来るようになった。

 昭和二十五年、朝陽・古里・柳原三ヵ村組合立中学校をつくろうという計画がもちあがった。その相談をしている途中、昭和二十八年三月に県から三ヵ村合併の案が示され、十月に長野市から正式に合併の申し入れがあった。十二月には古里・柳原両村が長野市への合併を決めた。朝陽村では慎重に部落懇談会などを実施したのち一月十七日に正式に合併の申し入れをし、三月二十一日に解村式をおこなった。四月一日、長野市に合併、三十三年、前村長篠原太一が発行人となって『朝陽村誌』を刊行した。